ネバーエンディングストーリー2再放送に思うこと
今、ちょうどネバーエンディングストーリーの2が再放送されています。
私は原作を「はてしない物語」という本で読んでおり、それ以降ミヒャエル・エンデを貪るように呼んでいました。モモ、ジムボタンなどなど。今にして思えば、「自分はこんな難しい本を読んでいるぞ」というステータスに酔っていたのかもしれませんが、やはり想像力を養ったりするにはいい機会だったと思います。
さて、その映画化ですが、残念なことに原作者の以降が無視されたため、夢いっぱいの表向きとは裏腹に政治的な部分はかなりドロドロのようです。まぁ、原作者と映画化スタッフとの間でお互いの主張が食い違ったとか、良く聞く話です。契約とはいえ、原作者のスタジオ入り拒否はやりすぎだと思いますけど(^^;
これはエンターテイメントで金儲けするときはいつもつきまといます。インディーズのロックバンドがメジャーになるときも、同様の「洗礼」を受けたり。大槻ケンヂはこれを「反体制だった自分がいつのまにか体制側になっている」と言っていました。
作品になにかメッセージを込めようとしたとき、そのメッセージが重くて強いほど、商業的には売れないという矛盾が生じます。そこで、売れなくてもメッセージを貫こうとすると、それはもう「芸術作品」ですが、金を産む「商品」にはなり得ません。逆に、メッセージを弱めてなるべく万人に当たり障りのないかたちに歪めると、それは「芸術作品」ではなくなりますが、立派な「商品」です。
エンデの件では、確かに1のラストでファルコンの威を借りてバスチアンがいじめっ子に復讐するのは、原作既読者としてはあんまりな最後です。バスチアン、お前の夢はいじめっ子への復讐(しかも他力本願)だったのかとw
一方で、1作目を映画的な盛り上がりも含めて前半で終らせるとしたら、幼心の君にモンデンキントの名前を与えて英雄生活を満喫するくらいまで書かないと終われません。それでも、前半1話、後半1話としたら、1.3話くらいまではみ出す形になりますし、あの描写をしようとしたら幾ら金がかかるのか。。。そうすると、ぶった切りは仕方ないのかもしれません。……ただなー。もっとやりようはあったと思うのですが。そこは原作スタッフの実力不足(もしくは作品の研究不足)なんでしょう。
良い映画と評されてどんどんメジャーになっても、それは自分の伝えたかったメッセージの無いカラッポの作品。ミヒャエル・エンデ氏が「芸術家」であるならば、身を引き裂かれるような、かなり苦しい状況だったと思います。
漫画原作のアニメでも同様の摩擦はいつもあります。しかしね、いつも思うのです。もっと作品に歩み寄って、大変でも研究して、安易な道に逃げ込まなければ。それ以上のムーブメントが産まれ、お金になるんだって気付いて欲しい。それをしないのは、純粋にスタッフの怠慢。もっと、原作を汚さずに、なおかつ金儲けする道はある。絶対にある。
エンターテイメントが俗化して、関わる人間がどんどん劣化している様は、今の吉本系お笑い芸人を発端とする笑いの質の低下に通じる所があります。また、こういった劣化に拍車をかけているのは受け手である自分たちにも責任がある(自分は立場的に微妙ですが)。
「大衆は愚かだ」的な名言がよくありますが、この状況を見るに、言われても仕方ないでしょうね。この流れ、止める方法はないものか。
少なくとも、自分は発信する側にあるのだから、努力を怠らずに行動と結果でこの流れに抵抗しようと思う。
私は原作を「はてしない物語」という本で読んでおり、それ以降ミヒャエル・エンデを貪るように呼んでいました。モモ、ジムボタンなどなど。今にして思えば、「自分はこんな難しい本を読んでいるぞ」というステータスに酔っていたのかもしれませんが、やはり想像力を養ったりするにはいい機会だったと思います。
さて、その映画化ですが、残念なことに原作者の以降が無視されたため、夢いっぱいの表向きとは裏腹に政治的な部分はかなりドロドロのようです。まぁ、原作者と映画化スタッフとの間でお互いの主張が食い違ったとか、良く聞く話です。契約とはいえ、原作者のスタジオ入り拒否はやりすぎだと思いますけど(^^;
これはエンターテイメントで金儲けするときはいつもつきまといます。インディーズのロックバンドがメジャーになるときも、同様の「洗礼」を受けたり。大槻ケンヂはこれを「反体制だった自分がいつのまにか体制側になっている」と言っていました。
作品になにかメッセージを込めようとしたとき、そのメッセージが重くて強いほど、商業的には売れないという矛盾が生じます。そこで、売れなくてもメッセージを貫こうとすると、それはもう「芸術作品」ですが、金を産む「商品」にはなり得ません。逆に、メッセージを弱めてなるべく万人に当たり障りのないかたちに歪めると、それは「芸術作品」ではなくなりますが、立派な「商品」です。
エンデの件では、確かに1のラストでファルコンの威を借りてバスチアンがいじめっ子に復讐するのは、原作既読者としてはあんまりな最後です。バスチアン、お前の夢はいじめっ子への復讐(しかも他力本願)だったのかとw
一方で、1作目を映画的な盛り上がりも含めて前半で終らせるとしたら、幼心の君にモンデンキントの名前を与えて英雄生活を満喫するくらいまで書かないと終われません。それでも、前半1話、後半1話としたら、1.3話くらいまではみ出す形になりますし、あの描写をしようとしたら幾ら金がかかるのか。。。そうすると、ぶった切りは仕方ないのかもしれません。……ただなー。もっとやりようはあったと思うのですが。そこは原作スタッフの実力不足(もしくは作品の研究不足)なんでしょう。
良い映画と評されてどんどんメジャーになっても、それは自分の伝えたかったメッセージの無いカラッポの作品。ミヒャエル・エンデ氏が「芸術家」であるならば、身を引き裂かれるような、かなり苦しい状況だったと思います。
漫画原作のアニメでも同様の摩擦はいつもあります。しかしね、いつも思うのです。もっと作品に歩み寄って、大変でも研究して、安易な道に逃げ込まなければ。それ以上のムーブメントが産まれ、お金になるんだって気付いて欲しい。それをしないのは、純粋にスタッフの怠慢。もっと、原作を汚さずに、なおかつ金儲けする道はある。絶対にある。
エンターテイメントが俗化して、関わる人間がどんどん劣化している様は、今の吉本系お笑い芸人を発端とする笑いの質の低下に通じる所があります。また、こういった劣化に拍車をかけているのは受け手である自分たちにも責任がある(自分は立場的に微妙ですが)。
「大衆は愚かだ」的な名言がよくありますが、この状況を見るに、言われても仕方ないでしょうね。この流れ、止める方法はないものか。
少なくとも、自分は発信する側にあるのだから、努力を怠らずに行動と結果でこの流れに抵抗しようと思う。



